ANMELDEN三日目の朝。
実里は部屋から一歩も出なかった。
「奥様、お加減はいかがですか?」
扉の向こうから使用人の声が聞こえる。
声が震えている。
この二日間の行動のせいか、実里は使用人たちに怖がられていた。
「少し気分が悪いの」
「でしたら……」
「例の看護師も薬もいらないわ。眠りたいの。誰も部屋に近づかないで頂戴」
そう返すと、使用人はそれ以上踏み込んではこなかった。
気分が悪いことは、嘘ではない。
胸はずっと重く、吐き気もあった。
落ち着かなかった。
なぜなら今日は、高橋誠から連絡が来る日だ。
いつも通りを演じることなど、とてもできそうになかった。
ベッドへ腰掛けたまま、実里はスマートフォンを見つめる。
時計を見る。
また画面を見る。
メールの受信箱を更新する。
何も来ていない。
「……条件?」広海の顔が変わった。わずかに眉を寄せ、実里の意図を探るように見つめてくる。「大したことではないわ。ただ、その前に教えて」「何だ?」「私はどこで手術を受ける予定なの?」一瞬の間があった。「朝比奈総合病院だ」「へえ」実里は素直に驚いた。朝比奈総合病院。国内でも有名な大病院だ。もっと小さなクリニックで、人目を避けて中絶させるのだと思っていた。東條家の嫁が中絶したと知られないように。だが、違ったらしい。「キャンセルして」「……何?」「病院は私が決める」広海が黙る。明らかに納得していない顔だった。「言ったでしょう」実里は冷たく笑う。「死にたくないって」「……手術は安全だ」「分かっているくせに、分からない振りをしないで」声が低くなる。「私は死にたくない。そして――あなたを信じていない」広海の表情が強張った。中絶手術。どれほど安全だと言われても、絶対ではない。手術中の予期せぬ事故。容体の急変。もしそこで実里が死んでも、不幸な事故として処理できる。広海が疑われることもない。「そんなつもりはない」「そうかもね」実里は肩を竦めた。「でも、あなたの愛する女はどうかしら」「……何?」初めて、広海の声に明確な戸惑いが混じった。「浮気女に言われる筋合いはないけれど」実里は淡々と続ける。「彼女にとって、私は邪魔者じゃない?」広海は何も言わない。「私がいなくなれば、東條夫人の座は自分のもの。東條家の資産も、その影響力も……私にはよく分からないけれど、殺す価値くらいあるんじゃない?」
実里から話があると広海に伝えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。広海が屋敷へ戻ってきたのは、それから一時間ほどあと。二人はダイニングの大きなテーブルを挟んで向かい合った。部屋の広さに合わせたから、二人には広すぎるテーブルだった。だから、以前は隣同士に座ることが多かった。食事中は、広海が実里の皿を気にしていた。野菜を食べろだの、塩辛いものを食べすぎだのとうるさかった。以前は、向かい合おうとは思わなかった。距離を感じたくなかった。でも今は、その距離がちょうどいい。「体調は?」広海が口を開く。「最悪よ」実里は笑って答えた。広海の視線が、実里の手元へ落ちる。使用人が用意した紅茶。まだ一口も飲んでいない。「飲まないのか?」「ええ」「食事もしていないと聞いた」「そう」広海の眉がわずかに寄る。理由を探るような目。実里は思わず笑った。「分かっているでしょう?」分からないふりをする広海に、思わず咎める声が出た。自覚はあったようだ。広海は目をそらす。その反応がおかしい。「こうして見ると、まるで私があなたを虐めているみたい」広海は黙っている。目をそらしたままで。「離婚してあげるわ」広海が顔を上げた。驚いている。信じられないものを見るような顔だった。「何、その顔」実里は笑う。「まだ私があなたを愛していて、離婚したくないって粘るとでも思った?」「実里……」「あなたと同じよ」「……同じ?」咎めるような声だった。実里は呆れてしまう。「こんな生活して
泣き落として向かった近所の病院。最新鋭の設備ではないが、アットホームな雰囲気で、実里は何も不満はなかった。実里の様子を見て、広海もようやく安心したのだろう。ネット上の病院の口コミを見て、「実里は大丈夫だ」と広海は祈るように繰り返していた。自分を愛しているのだからと思えば、泣き落としとか、しなくていい苦労をしたことは忘れられた。.診察中、広海は片時も離れなかった。医者がただの風邪だと言っても広海は納得せず、血液検査まで受けさせられたことは今も恨んでいる。(ただそれを上回る恨みや憎しみが今はあるだけ)付き添いの広海が慌て、医者と患者である実里が宥めるという、笑い話のような診察が終われば、次は薬だった。処方箋を睨みながら、熟読していた。分からないことがあれば、スマートフォンで調べる。検索結果が複数の答えを出せば、秘書に連絡し、薬について調べろと言った。いま病院にいるのではないか、と秘書に呆れられていた。薬局では薬剤師を質問攻めにした。帰宅してからも、処方された薬の名前を一つずつ確認していた。「広海って面倒くさいね」呆れて笑った実里に、広海は平然と答えた。「実里のことだから当然だろ」.(あのときは……)嬉しかった。大切にされているのだと思った。愛されているから、ここまで心配してくれるのだと。――愛しているから。(そう……)実里はゆっくりと目を開けた。胸の奥が痛んだ。今度も、きっと同じなのだ。広海は徹底して、全てを自分で管理しようとする。実里はよく知っている。ただ、今回は実里のためではないだけで。(愛する女のために)実里との子どもを確実に消す。そして実里と離婚して。
【お願いします】高橋誠に送った文章を、実里はじっと見つめた。【了解しました】その言葉に力が抜けた。安心しかけた。だが。【やってもらうことがあります】「やること……」嫌な予感がした。けれど、聞かなければ何も始まらない。【何ですか?】返事はすぐに来た。【まず、中絶手術を受ける病院を、私が指定する病院にしてください】実里は眉を寄せる。【身代わりと入れ替わるために必要です】続けて説明が届く。手術当日。実里は『病院からの迎えの者たち』に連れられて病院へ行く。【護衛はついてきてもいいですが、別の車で来てもらうようにしてください】【途中、パーキングエリアに二回寄ります】(二回……)【護衛は警戒し、車を降りたあなたに近づくでしょう。殺される、助けてと、大きな騒ぎを起こしてください】【なぜ?】【二回目で、護衛があなたに近づけなくするためです】【二回目で、待機していた身代わりの女性と入れ替わってもらいます】【身代わりの女性が乗車の際、護衛に別人だと気付かれたら厄介ですから】失敗ではなく、厄介と言った。つまり、最悪の場合でも別の手を考えているのだろう。但し、病院だけはどうにもならない。(病院は、なんとかするしかない)【入れ替わったあとは、そこにいる協力者の指示に従い、一緒に行動してください】【協力者?】【高橋友梨、私の娘です】(……娘?)【娘も大地さんに深く恩を感じ、あなたの状況を知り、協力すると本人が言い出しました】【台湾での生活のサポートも娘がします】ここで娘のことを聞き続けても意味はない。【分かりました】【何か準備するものはありますか?】【ありません。新しい身分も
【身代わりになる妊婦が、あなたの代わりに中絶手術を受けます】画面の文字を見つめたまま、実里は固まった。続けて文章が送られてきているが、それを読むことができない。ようやく指が動く。【そんなことは駄目です】送信。すぐに既読がつく。【その間に実里さんは名前を変え、日本を出ることができます】実里は首を横へ振った。高橋誠はここにいない。だから見えるはずがないのだが、何度も首を横へ振る。【駄目です】すぐに続ける。【私の子どもを助けるために、他の人の子どもを殺すなんてできません】送信した瞬間、涙がこぼれた。命に優劣などない。自分の子どもだけ助かればいいとは思えなかった。誰かの犠牲の上に立つことなど、実里は受け入れられなかった。しばらく返事は来なかった。やがて、高橋誠から短い文章が届く。【実里さん】父の葬儀で、少しだけ会話をした相手。顔は朧げ。声も覚えていない。だからなのか、父親に呼ばれた気がした。【あなたは知らないだけです】実里は眉をひそめた。知らない世界。教科書では教えてくれない世界を、父親は実里に見せた。美しいオーロラの輝きも。汚いスラムの闇も。新たな世界を知るたびに、世界を知った気になり。世界を知った気でいると、また父親が新しい世界を実里に見せた。――実里が知らないだけさ。そう言って。【身代わりを依頼するのは、望まぬ妊娠をした女性です】【堕胎する手段もなく、産むしかない女性です】画面を見つめる。【そういう女性は、少なくありません】【私は何人も見てきました】【死産とするため、自ら階段から落ちる女性もいます】胸が締めつけられた。
三日目の朝。実里は部屋から一歩も出なかった。「奥様、お加減はいかがですか?」扉の向こうから使用人の声が聞こえる。声が震えている。この二日間の行動のせいか、実里は使用人たちに怖がられていた。「少し気分が悪いの」「でしたら……」「例の看護師も薬もいらないわ。眠りたいの。誰も部屋に近づかないで頂戴」そう返すと、使用人はそれ以上踏み込んではこなかった。気分が悪いことは、嘘ではない。胸はずっと重く、吐き気もあった。落ち着かなかった。なぜなら今日は、高橋誠から連絡が来る日だ。いつも通りを演じることなど、とてもできそうになかった。ベッドへ腰掛けたまま、実里はスマートフォンを見つめる。時計を見る。また画面を見る。メールの受信箱を更新する。何も来ていない。数分後。もう一度更新する。何も変わらない。(まだ……)何度繰り返しただろう。気づけば午前中が終わっていた。「奥様、食事をお持ちしました」昼食は部屋へ運ばれてきた。「そこへ置いておいて」扉の外で食器がぶつかる微かな音がする。音が止んだ。使用人の足音が遠ざかる。実里はわずかに扉を開き、誰もいないことを確認する。そして、トレーを部屋の中に運ぶ。実里は黙って食べ始める。味は分からない。それでも食べる。父のアドバイスだから。食べられるときに食べる。それが、生き残るための基本なのだから。.トレーを廊下に出して、食後のお茶を飲んでいるとき。スマートフォンが小さく震えた。実里は飛びつくように画面を見る。







